1979年6月27日に第39代アメリカ大統領のジミー・カーター(Jimmy Carter)大統領が下田に訪問しました。その事について詳しくまとめたいと思います!

カーター大統領下田来訪の記念碑

カーター大統領訪問の概要

1979年6月に行われた東京サミット(先進国首脳会議)に出席する際に、下田に立ち寄りました。小さな町、下田に降って湧いたような訪問でした。伊豆大島近海地震や集中豪雨による被害などが立て続けに起きていた事で、伊豆南側は暗いイメージとなっていましたが、その中でのカーター大統領の訪問は、それを払拭させるものでした。

6月27日、歓迎と警備の中、大統領とロザリン夫人、子供のエミー等30人が下田に来ました。下田中学校におけるタウンミーティング、清流荘での昼食、玉泉寺の見学等、わずか4時間ほどの滞在でしたが、下田にとっては歴史的な1日となりました。

大統領の下田訪問の準備

下田訪問確定まで

カーター大統領の下田訪問を推薦したのは、下田市の名誉市民となっているマンスフィールド駐日米国大使です。マンスフィールド大使は、毎年開催される黒船祭に9回も米国大使として参加しており、カーター大統領下田訪問の機会を作ったことと合わせて、米国大使退任にあたって下田市特別名誉市民となっています。

カーター大統領訪問の前、5月開催の第40回黒船祭ではマンスフィールド大使は2回目の黒船祭参加でした。3日間開催される第40回黒船祭の中日、1979年5月17日には毎年恒例のならわしである、黒船祭執行委員5名の方々が太平洋艦隊司令長官より晩餐会に招待されていました。その帰途、米国側の通訳から次のように話されました。


来月(6月)東京先進国首脳会議にご出席のため、カーター大統領が来日されます。その時に御休憩の場所として、静かな下田市をマンスフィールド駐日米国大使が推薦しておられます。まだ、はっきりと確定がされておりませんので、公式の発表があるまで絶対に内密にしておいてください。


その後、5月26日に突然外務省の3名の係官が来訪し、「下田中学校体育館、下田市立図書館、玉泉寺、下田東急ホテル、下田プリンスホテル、清流荘、松崎町の大沢温泉ホテル、外ヶ丘ヘリポート、爪木崎グリーンエリア」を案内して欲しいと申し出がありました。この時案内した者は、「何の目的で?なぜこのような場所を?」と不審を隠せなかったそうです。

数日後、また外務省の他の係員が来訪し、同じ場所をより綿密に調査して帰りました。これで、カーター大統領の下田訪問はほぼ確定したようなものでした。さっそく庁議が開かれ、「カーター大統領の下田訪問は、黒船来航以来の歴史的大事業である。下田市民の英知を結集して、暖かく歓迎しよう。」とされ、「米国大統領歓迎準備室」が設置されました。

歓迎の準備と焦燥

下田を訪問する事はほぼ確定したようなものでしたが、6月27日という事しか決まっていませんでした。当日のスケジュールが判明しない中で、外ヶ丘ヘリポート(ベイステージのあたり?)を基点に図書館や下田中学校などへの所要時間を判定したりなど、考えられることを行っていきました。報道関係の方々の質問も増加し、準備委員の退庁時間は日ごとに遅くなっていき、緊張が増していくばかりでした。

そのような状態の中で、6月7日、準備室長他、計4名で東京の外務省を訪問し、当日の大統領のスケジュールをうかがい、以下のことがわかりました。

  • 公式日程は、6月10日から12日の間に米国から先遣隊が来日し、下田で調査をした結果により決定される
  • 下田中学校で対話集会(タウンミーティング)が実施される

このとき、ベルリンで行われたタウンミーティングのことを教えてもらい大いに参考にしたそうです。また、県は県として詳細を知りたいためか静岡県副知事も同席していました。残り20日程で片田舎の小さな町で準備万端整うのか?という心配や、下田市も静岡県も外務省からの正式文書をまだ受理していない状況でもありました。あまりに詳細不明な点が多く、外務省訪問でも上記のことしかわからないために、最後には副知事が声を大にして「県を何と心得る!」と絶叫したそうです。このような不安な状況の中で、伊豆振興センターの方々をはじめとした静岡県の職員も様々な協力をしてくれました。

米国先遣隊の来訪

6月12日に米国から大統領訪問の下準備調査の先遣隊約50名が下田に来ました。天気が良ければヘリコプターの予定でしたが、雨だったため電車で11時29分に下田に到着でした。市役所の第一会議室で会議が開始されようとしましたが、通訳がおらず、日米双方沈黙の後、同行していた外務省の職員に通訳を依頼して会議が始まったそうです。

外務省職員の説明による調査の順序と場所は以下の通りでした

  1. 下田中学校体育館
  2. 爪木グリーンエリア
  3. 玉泉寺
  4. 下田プリンスホテル
  5. 外ヶ丘ヘリポート
  6. 清流荘
  7. 下田駅:解散

準備室から2名を先遣隊に同行させて、市役所から次の目的地となったホテルなどに順次連絡をしていました。最後に外ヶ丘から入った連絡で、「次は清流荘へ行く」とのことで、すぐに清流荘に電話連絡をし、電話に応ずるフロントの方もこれが弾んでいるようでした。しかし、その数分後に「清流荘にはいかない。その旨、清流荘に連絡されたい」と。いまさっき行くと連絡を入れたばかりで、清流荘の方々も期待していたであろうがなんとお詫びしようと準備室の方は申し訳ない電話をしたそうです。

おそらくこれは、マスコミがたくさんいたために清流荘の調査を回避してカモフラージュしたのだと思われます。後日、先遣隊数名で二回ほど清流荘の調査が秘密のうちに実施されました。当日大統領ご家族に召し上がっていただく料理と同程度のものを試食してもらい、アドバイスがありました。そのおかげで、当日は大統領一家をはじめとした方々に「非常においしい」と喜ばれ、食事がどんどん進んでいた様子だったようです。

下田市と警備当局と米先遣隊の摩擦

上記6月12日に来訪した先遣隊のうち33名が下田東急ホテルに宿泊し、大統領訪問の準備と現場の調査を行いました。また、警備当局も、警察庁や県警本部から相当数の首脳陣が下田に来訪して下田警察署を拠点に警戒と現場調査をすすめていました。当日の27日に従事した警備陣は5,500名ほどといいます。

これに下田市の「米国大統領歓迎準備室」 を加えた3者は、それぞれの歓迎方法や当面する問題提起のための調整会議を行ったが、3者の意見が相違することもあり摩擦が生じました。最も経験豊かな先遣隊ですが、万一に備えて警備当局に反対される場面もありました。また、先遣隊の中のシークレットサービスは「我々の大統領は我々が守る」に対して、日本の警備陣は「日本に来たら日本の警察に任せろ」という意見で両者譲らない状態を日米警備戦争といった人もいるほどです。

3者の意思統一のために、外務省に対して下田への駐在員派遣を要望しました。しかし、東京サミットに関係職員を参加させているので下田駐在員の派遣はできない、という回答でした。

なかなか調整が難しかったようです。

市民向けの広報と市民の思い

準備を進める中で

  • 少しでも多くの情報を市民に提供すべきである
  • 下田市民はカーター大統領歓迎をどのように考えているのか

という問題が出されました。その解決のために、準備室長の下で広報作りが第一号から第六号まで行われ、新聞折り込みで全世帯への配布が行われました。

また、数名の準備室職員が衆力マイクを片手に町行く人々に

  • カーター大統領が27日に下田に来ることについてどう思うか
  • カーター大統領と話ができるなら、何を聞きたいか

と2つの質問を行いました。

1つ目に関しては、大多数の市民が「とてもいいことだと思う」と喜んで解答し、2つ目の質問については以下のようなものがありました。

  • いつも大統領はどんなことをやっているか
  • 子供さんは頭がいいか
  • 小さいときは何になりたかったか
  • 戦争はどうして起きるか

(小学5年生の男子児童)

私なら家にはお婿さんがいないので、アメリカ人の婿さんを欲しい。アメリカ人の若い人をむさんに世話してくれますか?と質問する

(70歳のおばあさん)

「戦争はどうして起きるか」という子どもの心が現れたような素晴らしく印象的な質問や、おばあさんのユーモアたっぷりのものがありました。

また、花束贈呈の訪問着の準備を市内の錦衣装屋に相談してみるも、いろいろ問い合わせて伊東の貸衣装に着物が2着あるくらいだという事で、準備として想定している10着には到底足りませんでした。その中で、大野木染物店の主人は、「着物の数によっては作ってはどうか。全てそろえると30万くらいかかるが、化織ならば作りようによっては10分の1くらいでできる。名古屋の問屋までの旅費を見てもらうだけで、儲けはいらないから。」と言っていたそうです。当時の市民は大統領をお迎えすることについて損得抜きにして、誇りを持ったのではないでしょうか。なお花束贈呈については、後日大統領と夫人だけで良いということになりました。

大統領訪問前夜

6月26日の正午ちょうどに、市長をはじめとして、大統領歓迎に伴うすべての安全と成功の祈願式を下田八幡神社で執り行いました。また、警備当局もリハーサルを実施しました。

庁舎内は報道関係の人たちが夕方を過ぎても帰る様子もなく、いっぱいでした。22時に外務省、警備当局、市側の三者による最終打ち合わせが市長室で行われていました。カーター大統領と大平首相の会談での日本の警備の厳しさをカーター大統領が指摘したためか、警備当局は警備の厳しさに関して譲歩を見せていたようです。会議は午前1時まで行われました。

  • タウンミーティングの警備人員を30名減員し、市民に出席してもらう
  • パレードで、大統領車のサンルーフを開けてオープンカー形式にする

これらがこの会議で決まったようです。そこから新たに出席する市民選びを行い、早朝の電話の失礼をお詫びしながら連絡してなんとか作業が終わったのは午前3時でした。

カーター大統領の下田訪問当日

カーター大統領の到着

当日の早朝は風が相当激しく、暗い雲もあったそうですが、大統領はヘリコプターで訪問しました。悪天候であれば電車の予定でした。外ヶ岡ヘリポートの無線者から市役所への通信が緊迫の声で次のようにありました。

  • 10時27分:ヘリコプターが見えた!
  • 10時32分:大統領機着陸態勢に入る
  • 10時33分:到着いたしました。大統領タラップを降りています。
  • 10時34分:市長と握手!県知事と握手!
  • 10時38分:大統領、車に乗られました。
  • 10時38分:大統領図書館に向け進行開始。
  • 10時40分:大統領車、サンルーフを開けオープンカー仕立てとなり、大統領は車外に体を乗り出して手を振っています。

外ヶ岡ヘリポートから下田駅前を通過して図書館に向かっている際中、日米の国旗を手にした歓迎者が沿道を埋め尽くし、体いっぱいに喜びを表現していると、カーター大統領もこれに応じて笑顔で高々と手を振っていました。沿道の歓迎者に対して、今朝早くから市役所の職員が1万本の日米の旗を配布していました。

図書館

カーター大統領の図書館での模様を次のように報じられてきました。

  • 10時44分:車列が入ってきました。只今一人到着しました。
  • 10時45分:カーター大統領が只今到着しました。ほほえんで歓迎者一人一人と握手をしています。ロザリン夫人とエミー令嬢も図書館に到着いたしました。
  • 10時46分:カーター大統領いま図書館に入りました。館内で市役所の職員とそれぞれ握手をしています。
  • 10時47分:ロザリン夫人、エミー令嬢も職員の方々と気軽に和やかに握手しています。エミー令嬢は茶目っ気たっぷりです。笑顔がとても可愛らしいです。
  • 10時47分:市長ただいま到着しました。この後すぐ市長は図書館の一階で米国側のドーベル儀典長に下田市よりの記念品をお渡ししました。
  • 10時48分:市長2階に上ってゆきました。
  • 10時52分:ロザリン夫人・エミー令嬢と並んで二階から降りてきました
  • 10時54分:カーター大統領と市長が並んで一階に降りてきました
  • 10時54分:市長の案内で下田中学校体育館へ向かいました

図書館での歓迎は直前まで準備が整わなかったようです。歓迎するメンバーもなかなか決まらず、やっと決定したメンバーもどこで待機して、誰がどうお出迎えすればいいかわかりませんでした。米国側の係員がいろいろアドバイスをしてくれるものの、英語が全然通じませんでした。その中で、歓迎者の一人として招待申し上げていた渡辺朗衆議院議員が通訳をして、米国側といろいろ調整を行ってくれました。

タウンミーティング

当時のタウンミーティングの記録がYouTubeに上がっています!

昭和54年(1979年)6月27日水曜日、小雨、午前11時より12時まで、下田中学校体育館でジミーカーター大統領が自らの第11回目のタウンミーティングを下田市民の代表390名を相手に行いました。

タウンミーティングとは

アメリカでの対話集会(タウンミーティング)は、「すべての市民が自分の政府に参画する」という、アメリカ民主主義制度の発展の基礎となってきました。1776年のアメリカ独立以前にもニューイングランドの小都市の市民が公務員を選出したり、法律を制定したり、意見を述べるために市庁舎に集まりました。このようなタウンミーティングは、市民が選出した公務員に質問をしたり、決定事項に対して責任を持たせるような討論の場となりました。

1976年、カーター大統領は大統領になってすぐに一般市民が大統領に直接質問できる機会をつくり、アメリカ初期の対話集会精神を復活させました。1979年までに、アメリカ国内で9回。西ドイツのベルリンで一回の対話集会を行いました。

対話集会の最も重要な特色は、市民がどんな意見でも問題でも自由に述べる事ができるという点です。

ご挨拶

会場となった下田中学校体育館横のグラウンドでは、中学生たちが校長先生の指揮のもとに日米国旗を振り歓迎をしました。カーター大統領は笑顔で大きく手を振って喜びを満面にたてました。

カーター大統領が会場に登壇した後、下田市長から次のような大統領紹介とあいさつがありました。


今から125年前、数席の黒船が下田を訪れました。当時日本は世界の進歩をよそに外国との通商もありませんでした。

ペリー提督は、日本で初めてこの地に上陸し日米和親条約を締結いたしました。そして本日、同じ国から世界の指導者、第39代アメリカ合衆国ジミーカーター大統領閣下が最も重要な世界先進国首脳会議に先駆け、先賢ゆかりの地、下田市においでになりましたことは、3万2千市民の最も光栄であり、名誉であります。さらに歴史的大事業でもあります。全市民あげて心から感謝と歓迎を申し上げます。

日米の歴史を大切にする市民対話集会が、日米両国民の理解と友好親善をさらに深め、世界の平和と発展の光が永遠でありますことを祈ります。

最後に、アメリカ合衆国の限りなき発展と、カーター大統領閣下の益々のご健勝をお祈り申し上げ、市民を代表し、ご挨拶をかねまして大統領をご紹介いたします。


これに対し、カーター大統領は次のように感謝を述べました。


下田の市民の皆さん、本日は妻と私と娘のエミーを暖かく歓迎していただき大変感謝しています。先日は大平首相と実り多い会談ができ、今日は歴史的な下田を訪れることができました。

Thank you very much, Mr. Mayor and distinguished citizens of Shimoda. My wife and I and my daughter, Amy, have been touched by the warmth of your welcome. I have already had the honor of an audience with your Emperor, and I have had very productive meetings with your Prime Minister Ohira, but I especially wanted to come to this historic city.

下田は日米友好の花が開いたところです。当時、日本は社会的革命を成し遂げようとしている歴史的な変革期にあり、米国は奴隷の社会であり、両国はその後大きな変革を成し遂げた。その過程において、両国民は民主主義に対する深い信頼を共にしてきた。また、両国ともに非常に大きなチャレンジにも遭遇してきた。

Shimoda is where our friendship first took root and flowered. A century and a quarter ago when our relationship began, Japan was a feudal society on the verge of social revolution. The United States was edging toward a war between the States over the issue of slavery. Neither of us has devised a perfect political system since then, but we share a fundamental belief in freedom and in democracy.

両国は、今エネルギーという問題に直面し、チャレンジしている。全世界と日米両国民はこの問題に対し協力しなければならない。エネルギーを奪う合うのではなく、協力して無駄をなくし、節約してお互いの利益のために使わなければならない。そしてまた、太陽熱、合成エネルギーのテクノロジーを開発しなければならない。自由は容易ではなく、民主主義は努力と犠牲なしに維持できるものではない。

As free people, we share common challenges as well. None is more important today than the energy crisis. Our planet is not producing enough oil to meet all our demands. The industrialized nations like the United States and Japan must face this challenge together, rather than competing with one another for every available barrel of oil regardless of price.

Energy is the principal subject of the summit meeting your country is hosting this week for the leaders of the major industrialized nations. Together we must restrain and reduce our imports. Together we must reduce waste and conserve our precious energy supplies. Together we must find ways to explore and to develop alternate energy supplies and new technologies of solar power and synthetic fuels.

This is a great opportunity as well as a challenge. Each of us must make painful adjustments in our society and some sacrifices in our daily lives. No one ever promised us that freedom would be easy or that democracy can be preserved without effort or without sacrifice.

日本は様々な工夫をして世界に冠たる経済大国になったが、同時に伝統と美しさも維持してきた。天皇陛下は1966年に詠んだお歌の中で、「町の人々のこえが、我々の仕事を導いてくれる」とうたわれた。私もその気持ちを持って米国民を導き、そしての本の皆さんとも接触している。それでは質問をお受けします。

All nations can learn from the example of the Japanese people in grappling with the complex challenges of development and of change. You’ve built your nation into an economic super power, but you’ve preserved the grace and the humanity and the beauty of Japanese society.

Your Emperor made a wise statement to leaders in a poem he wrote in 1966. He said, “Would that the wise voice of the man in the street spoke daily to guide us in the performance of our duties.”

I have learned a great deal from the citizens of my country attending town meetings such as this one. In the same way, I would like to learn from your own wisdom and your own experience. I will take your questions now, with great pleasure.

英文はここから引用:https://www.presidency.ucsb.edu/documents/shimoda-japan-remarks-and-question-and-answer-session-town-meeting


この挨拶の後、16名の質問者と対話を行いました。

16人の質問者との対談と当時の動画

小学生から80歳近い高齢者まで、16名がカーター大統領に質問を行いました。なぜ下田に来たのか、日本の若者に何を期待するか、発展途上国やベトナム難民の援助などの真面目な質問から、大統領の私生活や子供にどのような教育をしているかといった質問まで、様々な討論が行われました。その詳細は参考にしている「一九七八年六月二十七日 カーター大統領歓迎の記録(静岡県下田市)」に詳しく書いてあるので、下田図書館で見ることができます。

また、当時行われた下田タウンミーティングの動画がYouTubeに上がっています。

こちらのサイトにスピーチ内容や質疑応答がまとめられています(英語)
https://www.presidency.ucsb.edu/documents/shimoda-japan-remarks-and-question-and-answer-session-town-meeting

カーターうちわ

このタウンミーティングの最中、会場はとても暑かったようです。予算の関係で冷房設備が準備できず、当日は時折雨が降っていたため湿度も高く、カーター大統領が汗をかいていて暑そうだからなんとかならないか?と電話が全国から寄せられたほどです。そのため、会場ではうちわを入場者に配ったのですが、これが当時の東京サミットの中心課題である「省エネルギー問題」のPRに最高として、米国の先遣隊も30本持ち帰り、「カーターうちわ」と呼ばれて日本中で人気が出ました。冷房設備が準備できないことから、日本古来の伝統品であるうちわが思いもよらぬ注目を浴びることになりました。

下田宣言

対話集会の終わりに、カーター大統領から下田市民に下田宣言が送られました。この宣言は米国よりブロンズに刻印され送られてきており、下田公園に置かれています。

プレゼントの贈呈

対話集会を終えて図書館2階で大統領が休憩をとった後、下田市民からの記念品を大統領一家それぞれにプレゼントしました。まず、エミー令嬢に赤い花模様の美しい扇子、次にロザリン夫人に象牙のふちどりのある日本的な扇子を送り、最後にカーター大統領に大型の男性用の扇子をプレゼントしました。

このセンスには「平和の光」と墨で鮮やかに書かれており、通訳を通じてその意味を聞いたカーター大統領は、「市民の皆様方の暖かい心遣いに感謝申し上げます。」とお礼の言葉を述べました。

清流荘での昼食

清流荘ウェブサイト

図書館を出た後、昼食のために清流荘へ向かいました。清流荘では1時間半ほどお休みをとり、下田市長はドーベル儀典長らと一緒に清流荘で昼食をともにしました。食事は、先遣隊のアドバイスのおかげで非常に満足されたようです。

玄関でお出迎えの後、大統領家族を桐の間へと案内しました。桐の間での25分ほどは完全なプライベートタイムであるため、部屋の中の様子は不明ですが、シャワーを使用したようです。その後、桐の間に用意されていた下田市より贈呈のハッピを着て、昼食のために槇尾の間に大統領一家および同席のマンスフィールド中日米国大使、バンス国務長官婦人は着席しました。

接待をしていた客室係と清流荘社長夫人は、一杯の水を差し上げた場合でもその都度丁寧に「Thank you!」とお礼を述べるカーター大統領の人柄にすっかり魅せられてリラックス出来たそうです。カーター大統領は、稲生沢川で採った新鮮な鮎の塩焼きが時に気に入った様子でした。

次の間の高雄では、ドーベル儀典長、下田市長、静岡県知事など計8名のVIPが昼食をとりました。

昼食を済ませたカーター大統領は、中庭の孟宗竹と庭石を眺めたり、床の間の盆栽に興味を示していたようです。

その後、玉泉寺に向かいました。

大統領昼食メニュー

  • 盛花:牡丹、百合
  • 前菜:焼鳥、鮑バター焼き、セロリ
  • 吸物:若鳥の吉野打、玉子豆腐、よりうど、松葉柚子
  • 鉢肴:鮎塩焼、蛇篭蓮根、酢取谷中生姜、敷笹
  • 代鉢:可さご唐揚げ(カサゴ?)、春雨、菜味、ポン酢、天婦羅、車エビ、可ます
  • 中皿:椎茸、南瓜、ししとう、生姜おろし、喰露
  • 洋皿:伊勢海老、サラダ、添レモン
  • すきやき:松阪牛、焼豆腐、岩月、竹の子、椎茸、美津葉
  • 寿司:巻海老、喜和田鮪、尾長鯛、苔海巻、玉子焼
  • 水菓子:菊花氷鉢、メロン、ニューサマーオレンジ、朝日西瓜
  • デザート:アイスクリーム、コーヒー

清流荘が何故選ばれたか

清流荘の社長は、カーター大統領がなぜ清流荘を選んだのかについて、次のように考えています。

  • カーター大統領は、訪問先の土地柄を知ろうと、徹底的な努力をする人である。そんな性格が純日本式の清流荘を選んだと思う
  • 現在はホテルのように高層のものが多い中で、旧式の木造の宿屋風のものが、和風という雰囲気で一興あった
  • 市街地から離れ、稲生沢川に囲まれており、入り口方向をガードすれば良いという、警備的な利点

社長は外国によく行っており、外国で理解できた日本の良さを自分の和風旅館の経営に取り入れて活用し、かたくななまでに純日本的旅館という方針で貫いています。そのような、一見近代的なホテルとはどこか違った経営的感覚をカーター大統領は理解したものと思われます。

玉泉寺訪問

玉泉寺ウェブサイト

玉泉寺には、ペリー来航時に亡くなった5名の米水兵の墓があります。15分ほどの訪問だったようです。

大統領一家は、山門の下で案内板をしばらく見た後、出迎え人たちと一人一人握手をしました。まず、ハリスの記念碑について説明をし、次に本堂、そして米人墓地へと案内をしました。米人墓地では、ペリー来航時に下田港で亡くなった水兵のお墓について説明を行いました。墓碑面に刻まれた乗艦名がミシシッピーと記されているのにカーター大統領が目をとめ、「私もこの名前の艦の2世に乗っていた。今のミシシッピーは3世です。」と言いました。

ちなみに、いまミシシッピ(Mississippi)の名を冠する艦は5代目で、原子力潜水艦のようです。

https://www.csp.navy.mil/mississippi/

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%94_(%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6)

USS Mississippi (SSN-782) arrives at Pearl Harbor in November 2014.JPG

外ヶ丘ヘリポート

カーター大統領は夏の軽装となり、真っ白のオープンシャツ姿でした。外ヶ丘では、市長、県知事が下田市民の見守る中、カーター大統領が次の言葉を残して14時40分に離陸しました。


本日のお役目大変ご苦労様でした。今日の下田での行事は私にとっても一生の思い出になるでしょう。下田市民の歓迎に対し、また日本の皆様方のご支援に対し心より感謝します。


このとき、市議会員の方々が多勢でヘリポートに来て警備当局の制止を聞かない事態があった。それは「カーター大統領を見送りたい」という心がそうさせたと理解できる。その2日前、「我々28名の市会議員が対話集会に参加するよりも、これからをになう青少年、少女たちに席を譲りたい」とい申し出がありました。そのため、この28名の市議会員は対話集会には参加せず、代わりに小中学生28名が追加で参加することができました。

カーター大統領の下田訪問に関してその他

記録映画

準備を進める中で、カーター大統領歓迎の記録映画を作ろうという話が持ち上がりました。カーター大統領を歓迎できなかった人達に見てもらうため、そして何十年後の後世にカーター大統領歓迎の様子が一目でわかるようにしておくためでした。200万円ほどで東京福原フィルムスという、映画会社のスタッフ12名が下田に来訪し、下田市の公式記録員として当日のすべてをフィルムに納めました。7月25日に完成とされています。

この映像はどこにあるのでしょうか(>_<) 見たい!

(2月6日追記)

市役所に聞いてみたところ、この記録映画が見つかりました!16mmフィルムで😂機材がなくて見れない!どうにか見れるようにしたいですね(;_:)

総費用

カーター大統領歓迎に関する予算は、2424万円でした。外ヶ岡へリポートの修繕費に700万円、記念品に200万円、記録映画作成に200万円、他に下田中学校体育館や図書館の修繕費等でした。

参考にした本

この記事の作成には、 「一九七八年六月二十七日 カーター大統領歓迎の記録(静岡県下田市)」 という本を参考にしました。この本以外に、カーター大統領の下田訪問・タウンミーティングに関して、詳細に記述されているサイトや本は他に見つかりませんでした。下田の歴史系の本に少し書いてあるだけです。

歓迎の準備や当日の様子、タウンミーティングの詳細な内容や市民から寄せられた感想などが書かれています。

米国大統領歓迎準備室の8人の職員が仕事の合間に記録として書いているので、全体の構成や流れなどがわかりにくかったです。しかし、その分、生の様子が浮かぶような本でした。

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