1854年11月4日、安政東海大地震による津波で下田は壊滅的な被害を受けた。その復興に伴って、現在の下田の街並みが作られました。これらについてまとめたいと思います!

日露和親条約の締結をしにロシアのプチャーチンが来ていた時に起こったため、幕府の役人による記録やロシア側の記録など、たくさんの記述が残されています。

米ここでは下田の話を中心にしますが、「安政の大地震」は安政の時代にたくさん起きた地震の総称を指すものなので、下田の話を代表として安政の大地震を語っているわけではない事に注意です(/・ω・)/

安政の大地震

Wikipedia「安政の大地震」には次のように書いてあります。

安政の大地震(あんせいのおおじしん/だいじしん)は、江戸時代後期の安政年間(1850年代)に、日本各地で連発した大地震である。
世にいう「安政の大地震」は、特に1855年(安政2年)に発生した安政江戸地震を指すことが多いが、この前年にあたる1854年(安政元年)に発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および、安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めて「安政の大地震」と総称される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87

安政の時代にたくさん起こった地震の総称を指すものとなっています。下田で「安政の地震」というと、1854年11月4日に津波で壊滅的な被害を受けたそれを指すことが多いですね。下田では1,854年11月4日午前10時ごろに揺れが起き、その30分後、10時半ごろに津波が押し寄せました。午後4時ごろまで、数回にわたって下田の町を津波が襲ったそうです。

安政の時代は、アメリカの黒船来航が1953年にあり、下田が津波で壊滅した1854年11月4日もちょうどロシアのプチャーチンが来航していた時であり、江戸幕府が開港を相次いで迫られる時勢でした。その中で津波で壊滅した下田は、その後急速に復興を遂げて長崎をしのいで日本の外交の最前線となり、1856年にはハリスが着任して幕府との交渉にあたるなど当時の重要な場所になっています。

プチャーチンが乗っていた船、ディアナ号は沈没は免れたものの甚大な被害を受けた。

安政の大地震による下田の被害

当時の下田は、現在の町中が中心であり、そこに6mほどの津波が押し寄せたと記録されている。当時、1000軒ほどあった建物のうち、912軒が流されており無事だったのはわずかに16、17軒ほどであったという。建物の被害に対して死者は122名とそれほど多くはない。(ロシア船ディアナ号の記録によると、856戸のうち全壊813戸、半壊25戸、18戸無事、死者85名とある。記録によって違うが、当時の下田がほぼ全滅したのは間違いないようだ)

1854年11月4日の安政の津波がよく取り上げられるが、その前にも1707年10月4日、912軒のうち857軒が全壊、1703年11月22日、492軒のうち332軒全壊などの津波被害がある。もっとさかのぼれば同様の津波被害があったのだろう。このように、古くから下田には何度も津波が押し寄せているため、大きな揺れが収まるとすぐに津波を警戒して高台に避難していたために、死者数は少ない。特に下田は、町の周りに海善寺山や敷根山、了仙寺山、城山などの高台が多く避難もしやすかったのだと思われる。

津波は町を流し、了仙寺まで船が押し流されて衝突した跡が寺に残っている

ディアナ号

日露和親条約の締結をしに来ていたロシアのプチャーチンが乗っていた船、ディアナ号は沈没は免れたものの甚大な被害を受けた。

安政元年10月3日に大阪を出港したプチャーチン提督のディアナ号は、同月14日に下田沖に現れた。11月3日に福泉寺で第一回の会談が行われ、翌4日の午前10時ごろ、安政の大地震が起こった。

ディアナ号は、早朝からより安全な湾の北東部へ投錨地を移そうとしており、同時に日本の役人への贈り物を整えるために所持品の処理が行われていた。午前10時ごろに船上でも異様な振動が感じられたが、30分ほどで6mにもなる津波が下田湾に押し寄せた。

津波は何度も押し寄せ、引いていく波と新たに来る波でできた渦に巻き込まれて、ディアナ号は42回も回転したという。このとき、甲板の大砲がひっくり返って下敷きになったロシアの水兵が1名亡くなっており、他に航海中等に亡くなった2名と共に玉泉寺にお墓がたてられている。

ディアナ号は大破し、浸水もしていたが、ロシア側は夕方には津波見舞いに副官ポシェートに医師を同行させて傷病者の手当ての協力を申し出ている。

自力での公開が不可能となったディアナ号は、修理のために戸田港へと向かうことになるが、その航海の途中で沈没してしまった。乗員500名は全員戸田に収容されて、ロシアに帰るための代船であり、日本最初の洋式船となるヘダ号をプチャーチン一行と戸田周辺の船大工で協力して造船した。(この話はまた別の記事で詳細に書こうと思います(>_<))

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