下田に関する年表をまとめました。随時追加予定
■←この色の行は下田と大きく関係はないけど、歴史上重要そうなところ(幕府の立ち上げ、終戦など)
参考
- 図説 下田市史 増補版 (本)
- 下田市ホームページ 下田の歴史年表
- 第1章 下田市の歴史的風致形成の背景
- 下田市ホームページ 下田市50年の歩み
- 年表 下田市史 (本)
など
開港以前(1853年より前)
年代 | 事柄 |
---|---|
680年 | 伊豆が駿河から分離して一国となる |
701年 | 伊豆に田方・邦賀・賀茂の3郡が置かれる |
1000年 くらい | 須崎両神社の和鏡、白浜神社の和鏡などが作られる |
1180年 | 頼朝が挙兵する |
1225年 | 白浜神社に若宮御正体が奉納される(下田最初の銘) |
1334年 | 河内重福院(こうちじゅうふくいん)の宝篋印塔(ほうぎょういんとう)が 建てられる。読めなかった(笑) |
1336年 | 室町幕府の始まり |
1399年 | 下田八幡神社の鰐口が奉納される |
1498年 | 伊勢新九郎(北条早雲)が堀之内深根城を攻略。足利茶々丸の死。 |
1573年 7月 | 室町幕府の滅亡 |
1588年 | 後北条氏は水軍の拠点として下田城を築き、清水康英を城主とする |
1590年 3月 | 秀吉の小田原攻めにより、下田城攻防戦が展開される。4月末に開城。「下田城の保存を推進する会」がある |
8月 | 7月に小田原城開城、後北条氏滅亡、8月に下田は家康旗下の戸田忠次の領有地になる。 |
1598年 | 縄地金山の採掘がはじまる |
1603年 | 江戸幕府創立 |
1606年 | 大久保石見守長安が伊豆の金山奉行となる。この頃、縄地金山は最盛をきわめる。 このころ、加増野・相玉に金山が開掘される 縄地金山の詳細:「ゴールドラッシュの伊豆、幾たびか」 |
1615年 | 大阪夏の陣に備えて、家康が今村伝四郎に下田警備を命ずる。 |
1616年 | 下田奉行が設置され、須崎に遠見番所が設置される |
1623年 | 大浦に遠見番所が移る |
1635年 | 今村伝四郎正長、了仙寺創建 |
1645年 | 武ガ浜波除が完成 詳細:下田まち遺産手帖17号3~4頁、5~6頁 |
1662年 | 大浦の切通し工事の土砂で坂下町、七軒町(下記画像あたり)ができる |
1662~1678ごろ | 大浦坂開削工事の残金で町内に水道敷設 |
1703年 | 地震・津波により、332軒流失、160軒半壊、溺死37名(20名の説もある) |
1707年 | 地震・津波により、857軒流失、55軒半壊 |
1721年 2月 | 御番所が浦賀へ移転される。下田奉行は廃止されて、浦方御用所が置かれる。 |
1731, 1732年ごろ | 池之町三吉宅より出火。多くの建物が類焼したというが、件数不明。 |
1756年 | 岡方村元六宅より出火。300軒あまりが類焼 |
1776年 | 海善寺より出火。200軒あまりが類焼 |
1793年 3月 | 老中松平定信が海防見分のために伊豆を巡見する |
1804年 | 2丁目惣八宅より出火、492軒類焼 |
1808年 | 州佐里崎(須崎)に御台場建設が決まるが、取りやめとなる |
1813年 | 伊勢町伝蔵宅より出火154軒、岡方村52軒類焼 |
1816年 | 新田町金七宅と源蔵物置間より出火、新田町須崎連尺殿小路紺屋5町、本棟103軒土蔵等類焼 |
〃 | 連尺町清七清吉宅間より出火、連尺殿小路など9町115軒類焼 |
1842年 12月 | 下田奉行が再設置される |
1843年 4月 | 州佐里崎(須崎)、狼煙崎に幕府が御台場建設 三穂ヶ崎に沼津藩が 御台場建設 |
9月 | 平井平次郎による「下田年中行事」87巻が完成。十数年を費やして、当時の下田町の様子や町制に関する事が記録されている。江戸時代の下田地域を知るうえで貴重な資料として高く評価されており、複製本が売られている(調べると古本屋でいくつか売られているようだ) |
1844年 2月 | 下田奉行が廃止 |
幕末開港(1853年~1860年)
年 | 月日 | 事柄 |
---|---|---|
1853 | 12月 | 同年の6月3日に浦賀にペリーが来航したことをきっかけに、下田市高馬に反射炉建造。翌年3月、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が反射炉敷地内に侵入する事件により、韮山に移転 詳細:韮山反射炉とは |
1854 | 3月3日 | 下田開港。1853年6月3日に浦賀にペリーが入港。1854年1月12日に浦賀に再来航し、3月3日日米和親条約12か条が神奈川で締結され、下田が開港した。 |
3月18日 | 下田にペリー艦隊7隻が下田に来航 吉田松陰、金子重輔が下田に到着 | |
3月22日 | 下田奉行再々設置。宝福寺、稲田寺が仮奉行所となる | |
3月24日 | ペリーが上陸し、了仙寺でもてなし | |
3月27日 | 吉田松陰「踏海の企て」。柿崎弁天島から漕ぎ出すが失敗 | |
5月22日 | 日米和親条約付録下田条約13か条を了仙寺で調印 | |
6月1日 | ペリー、下田を去る | |
10月15日 | プチャーチンのディアナ号が下田に入港 | |
11月3日 | 第一回日露交渉が福泉寺で行われる | |
11月4日 | 安政の大地震・大津波により下田は壊滅状態に。ディアナ号も大破 | |
12月2日 | 修理のために西伊豆の戸田港に向かったディアナ号が激しい波風により沈没。乗組員約500名が地元漁民により救出される。帰国用の代船建造を戸田港で行い、日本最初の洋式船「ヘダ号」が3カ月で完成する。日本人によって洋式船の建造技術を習得する重要な機会となった。 | |
12月21日 | 日露和親条約9か条と付録4か条を長楽寺で締結。その前に玉泉寺で第2回(11月13日)、第3回(11月14日)の日露交渉が行われている。 | |
1855 | 3月22日 | ヘダ号でプチャーチンらが帰国 |
12月 | 中村(現在の下田警察署付近)に下田奉行所屋敷が建てられる | |
1856 | 8月 | ハリスが7月21日に下田に来航し、8月5日に日本最初の米総領事として柿崎の玉泉寺に着任 |
1857 | 5月22日 | お吉、玉泉寺へ支度金25両で出仕 |
5月26日 | 下田協約が締結 | |
10月7日 | ハリスが下田を発ち、天城・箱根を越えて江戸へ | |
1858 | 6月19日 | 日米修好通商条約、ポーハタン号艦上で締結 |
1859 | 5月2日 | 横浜開港、ハリスが下田を去り、玉泉寺領事館閉鎖 |
12月 | 下田開港場と奉行所が閉鎖 |
明治から下田市政施行(1971年)まで
年 | 月日 | 事柄 |
---|---|---|
1867 | 11月9日 | 大政奉還 |
1868 | 伊豆は韮山県と一部菊間藩などの支配となる | |
1869 | 8月 | 澤村造船所(下田ドックの前身)発足 |
1870 | 11月11日 | 神子元島灯台が完成し、点灯される |
1871 | 伊豆は全て足柄県の管轄となる | |
1874 | 上大賀茂村と下大賀茂村が合併して、大賀茂村となる | |
1875 | 岡方村と下田町が合併。 現在の下田中学校付近が旧岡方村と呼ばれますね。中学校のすぐ横の住宅地は新しくできた住宅地である弘洋園。南側が旧岡方村かな。 | |
1876 | 足柄県が廃止され、伊豆は静岡県に編入される | |
1877 | 本須郷、新須郷、茅原野、北の沢が合併して、須原村となる 稲梓方面、上原仏教美術館から更に河津方面に進んだところが須原 | |
1878 | 賀茂郡所属の伊豆諸島は東京府管轄となる | |
1879 | 1月 | 私立豆陽学校が創立される 現在の下田高校 |
1888 | 株式会社下田銀行創立 | |
1889 | 市町村制施行により、下田町、稲梓村、稲生沢村、浜崎村、朝日村となる | |
1896 | 浜崎村から、白浜が分村する | |
1897 | 柿崎水産合資会社創立、下田信用組合設立 | |
1898 | 9月 | 下田ドック合資会社が設立 |
〃 | 下田海産株式会社創立 | |
1900 | 株式会社稲生沢銀行創立 | |
1901 | 3月 | 城山公園下の地に下田ドックの新しいドックを建設 |
1903 | 中の瀬株式会社創立 | |
1905 | 天城新道が完成 | |
〃 | 東京湾汽船株式会社設立(沼津―下田ー東京)(1912年、駿河湾汽船と共同営業) | |
1912 | 下田製氷会社設立 | |
1914 | 第一次世界大戦 | |
1916 | 下田自動車株式会社創立 | |
〃 | 新道建設により、大正町創設 上田町から北にいこうとすると、広岡町と三丁目の街並みに突き当たり、東西いずれかに迂回する必要があった。1916年6月19日に、新道建設の議案が下田町議会に提出された。新道により新たにできた新町は当時の元号にちなんで大正町と名付けられた。 | |
1920 | 群立賀茂高等女学校が開校 現在のメディカルセンターで元下田南高校 | |
1923 | 関東大震災 | |
1924 | 10月 | 雑誌「黒船」が刊行される |
1934 | 開港80周年記念で、第一回黒船祭が挙行される。この頃、金融恐慌で世界の経済が不振であり、その中で下田は豊富な温泉や幕末開港の歴史を観光の資源として活用していた。上記の雑誌「黒船」や十一谷義三郎の「唐人お吉」、川端康成の「伊豆の踊子」などの作品により下田観光ブームが起きた。その中で行われた第一回黒船祭は、戦前の観光下田が生んだ傑作ともいうべき祭典である。 黒船祭についてまとめた記事はこちら | |
1938 | 海軍道路竣工 下田港の改修工事と共に、海軍が負傷兵を降ろして南伊豆の湊病院まで陸上輸送することが計画され、そのための道路が建設された。路面が悪いと傷ついた負傷兵を車で運ぶのは体に悪いため、舗装する必要があり、この海軍道路が賀茂郡最初の舗装道路となった。 | |
1939 | 第二次世界大戦 | |
1944 | 11月24日 | 下田初の空襲。その後、10数回の銃爆撃を受ける。 マリアナ諸島からB29が101機、東京武蔵野町の中島飛行機武蔵工場を狙って出撃した。これがマリアナ諸島からの最初の日本本土爆撃であったが、下田はその最初の出撃の最初の爆撃の洗礼を受けた。(日本本土初の空襲は、1944年6月に八幡製鉄所を狙ったもの。中国から出撃したが、様々な制約から九州北部しか狙えなかった。そのためアメリカはマリアナ諸島を攻略し、日本本土への本格的な爆撃準備を行った。) |
1945 | 4月12日 | 最も被害の大きかった下田空襲。 10時20分ごろ、陸軍1個中隊が集結中(下記画像あたり)に、これを狙って町中の中原町、原町、旧池之町をB29一機が爆撃し、民間人53名が犠牲になった。軍・民間人犠牲者57名、全壊15戸、半壊23戸。 |
1945 | 8月13日 | 9時ごろ、鍋田湾に停泊中の潜水輸送艇まるゆ8号(平仮名のゆを丸で囲んで、「まるゆ」。㋴)を発見・爆撃 艇は瞬時に沈没し、乗員10名が戦死した。 |
1945 | 8月15日 | 終戦 |
1954 | 縄地有料道路が完成 詳しくはこちら | |
1955 | 3月31日 | 6ヵ町村が合併して、下田町となる 下田町、濱崎村、白濱村、稲梓村、稲生沢村、朝日村の合併 |
1961 | 12月 | 伊豆急電鉄が開通 |
1967 | 下田海中水族館開館 ウルトラマン、ウルトラマンティガでロケ地として使われたらしい(参考) | |
1971 | 1月 | 市制が施行され、下田市となる |
下田市政施行(1971年)から現在
年 | 月日 | 事柄 |
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1971 | 11月 | 須崎御用邸完成 |
1974 | 5月9日 | 伊豆半島沖地震で被害を受ける |
1976 | 4月 | 現在の市立図書館完成 |
1978 | 1月14日 | 伊豆大島近海地震 |
1979 | 6月27日 | カーター米国大統領、下田でタウンミーティング 詳しくはこちら |
1981 | 北方領土返還第一回下田集会が開かれる | |
1986 | 伊豆大島噴火 | |
1987 | 下田船渠(しもだせんきょ)(下田ドック)の解散 | |
1988 | 敷根公園完成 | |
1989 | 1月7日 | 昭和天皇崩御、平成元年 |
1989 | 下田市民文化会館完成 | |
1991 | 敷根公園温水プール完成 | |
1999 | ベイステージ下田ができる | |
2002 | まどが浜海遊公園完成 | |
マイマイ通り開通 | ||
2006 | 「伊豆ナンバー」導入 | |
2008 | 下田高校開校 | |
2011 | 3月11日 | 東日本大震災 管理人は、ちょうど下田中学校の体育館で卒業式練習をしていた時で、揺れたので中止して体育館中央にみんな集まったのを覚えている。 |
2012 | 下田メディカルセンター完成 | |
2018 | 伊豆半島がユネスコ世界ジオパークに認定 管理人、ユネスコ活動に関わっているのに良く知らないので今度調べる(/・ω・)/ | |
2021 | 市政施行50周年 |